展示
企画展
富士正晴と松田道雄後
ー自由人として生きるー
会期 令和8年3月24日(火曜日)から10月25日(日曜日)

ごあいさつ
このたび令和8(2026)年度前期展示テーマを「富士正晴と松田道雄―自由人として生きるー」と致しました。近年の新型コロナ流行は、かつて不治の病とされた結核という肺病を思い起こさせました。松田道雄が戦前に書いた『結核』(1940,弘文堂刊)という本を読んだ富士正晴は、「情のあふれた聡明さをもった良い本。感心した」と日記(1941,12)に記します。この1冊の本が富士の松田道雄を知るきっかけとなります。
のち1950年代中頃、ふたりは桑原武夫を介して面識を得たものと思われ、「日本小説を読む会」「思想の科学」などの集まりが顔つなぎの場になります。富士の日記に「松田道雄と毎日〔新聞社〕からクラブ関西とずっと一緒。○○などと同じところでのむ」(1956.7.30)とあり、この日が初めての酒の付き合いだったようです。松田は富士の5歳年長でしたが、馬が合ったのか、瞬く間に夜半酔っ払っては電話交換する仲となります(自由人たるふたりには“迷惑”などという発想すらなかったようです)。富士正晴著『桂春団治』(毎日出版文化賞,1965)の新聞論評(推薦文)も松田が事前に電話で<少しよっぱらって>読み聞かせたといいます。
つねに自由人でありたいと思っていた正晴は、松田の著書(医学書、育児書、評論、エッセイ等)にみられる既成の概念にとらわれない自由な発想に共感します。「私は赤ちゃん」(1960)は正晴の子どもたちの愛読書だったといいます(1966.3日記)。ちなみに、松田が毎日新聞に寄せたエッセイ「ハーフ・タイム」(1974.2~83.9)の切り抜きは167頁にものぼるなど、雑誌や新聞に載った松田の記事のほとんどを正晴は切り抜いていたようです。
松田の方でも同じで、正晴の著書を読み、書簡や電話でやり取りし、酒を飲みかわすなかで、文壇やジャーナリズムに媚びず、社会に安易に迎合しない正晴の自由な生き方に共感を覚えます。正晴を見て、本業の医者を辞めて著述業への転身を決めたと語っています。
司馬遼太郎は「真如の人―富士正晴を悼むー」のなかで、富士を「なま身で自分を通した」と評します。さらに桑原の「富士正晴、これはえらい人です」という富士評を引用し、「人は遠い世の一休・良寛を求める必要はなく、富士を見ていればいい」と論じています。富士はたがいを認め合った間柄の人たち(桑原、貝塚茂樹、吉川幸次郎、司馬とその妻など)に好んで深夜電話し、司馬は「松田道雄氏などはさんざんつきあわされたはずだ」と紹介しています。ただし、富士日記によれば、宵っ張りの酔っぱらっての深夜電話はお互い様だったようです。
松田道雄の富士宛書簡・追悼文「富士さんと医学」・著書(医学書・思想書)・エッセイ集「ハーフタイム」、富士の松田道雄関係日記・書評、松田・富士の“わたしの戦後“などの資料を通して自由人として生きたふたりの濃密な世界をどうぞごゆっくりご鑑賞・ご堪能下さい。
富士正晴記念館
令和8年(2026年)3月
出品目録
※資料の多くは拡大コピー、「消印」「受取」は富士宛松田書簡、「日記」は富士正晴の日記を示す。
【著書「帯」文にみえる自由人松田道雄】(紹介)
- プロフィール紹介とスナップ写真(提供:藤好美知氏)
- 〈良心的知識人・市民としての立場をつらぬいた特異な学究である〉『日本知識人の思想』筑摩叢書1965.7.25
- 〈市民的自由の旗幟を高くかかげる著者…育児・教育・学問から老人の生き方〉『洛中洛外』中央公論社1972.3.1
- 〈読むものに、管理からの自己解放を、子どもに自由を、と呼びかけるこの本〉『私の教育論』筑摩書房1977.4.1
- 〈自由人として生きて…みずみずしい感覚と、自在なまなざしが綴る〉『ハーフ・タイム 上』筑摩書房1979.11.1
- 〈階級的視点をはなれ、無党派の市民の自由な立場で…戦後の状況を見る〉『私の戦後史』筑摩書房1980.8.25
【自由人富士正晴への思い】
- 松田道雄〈おれの好きなようにしか生きんぞというおことば、何度も何度もくりかえし読み、あなたとの落差を恥じます〉富士正晴宛1969.2.11消印葉書
- 松田道雄〈富士さんは私の貴重な友人だ。自由に生き、自由にかんがえるとはどういうことかを教えてくれる…
籟惰の姿をとった、生の厳粛がそこにある〉『八方やぶれ 富士正晴エッセー集』「帯」文 朝日新聞社1969.12.15 - 松田道雄〈不自由な思いで命だけのばしているのにくらべたら、頓死のほうがはるかに幸運だ…アルコールとニコチンによる頓死術は、やはり他人にまねられない富士さんの芸術にぞくする〉「富士さんと医学」『富士正晴作品集二』-月報二 岩波書店1988.8
- 司馬遼太郎〈なま身で自分を通した…人は遠い世の一休・良寛を求める必要はなく、富士を見ていればいい〉
「真如の人―富士正晴を悼むー」『富士正晴文学アルバム』富士正晴記念館2002.2初出 読売新聞1987.7.16
【松田道雄との出会い】
- 松田道雄ト毎日〔新聞社〕カラ一緒、ズット一緒、横田、北村ナドト同ジトコロデノム(1956.7.30日記)
- アサヒ、ビア アーベントヘ行ク。松田道雄ガサガシテイタソウダガアエズ。(1958.8.1日記)
⇒松田道雄〈先夜はお目にかかれなくてまことに残念でありました〉富士正晴宛の初見書簡1958.8.8消印 - 多田〔道太郎〕ニサソワレテ小説ヲヨム会ニユク。松田道雄ノハナシ実ニヨカツタ。(1961.5.13日記)
- 「日本小説ヲヨム会」ニ出席。杉本〔秀太郎〕トユク。松田道雄ガ報告(1961.11.23日記)
- 「朝日ジャーナル」カラ松田道雄ノヲ少シ抜キ書キスル。(1962.2.16日記)
- ワタシト松田道雄ノ会食ニ多田ガ加ワリタガル。…松田ノ好キゲンガオモシロカツタ。(1962.11.1日記)
【多様な松田道雄像】
*印:当記念館では現在所蔵していない書籍です
◇医者として
- 『結核』*弘文堂1940.12☞〈情のあふれた聡明さをもった良い本。感心した〉1941.12.4日記
松田〈戦前に私のかいた唯一の本をよんでいただいていたのに先ず驚き〉1984.6.20消印 - 『人間と医学』中央公論社1947.3(『人間と医学』筑摩書房1981.1.20所収)
- 『結核とのたたかいの記録』白東書館1948.4(同上)
- 『あられ療法』創元社1953.1.15☞〈感心〉1954.6.14日記
- 『私は赤ちゃん』岩波新書1960.3☞〈年子、伸子、重人が愛読。おどろいたベストセラーだ〉(1966.3.20日記)
- 〈桑原さん完治…職業上の秘密を守りとおしたので…水臭い奴と思われたようです〉1966.5.5消印
- 『育児の百科』岩波書店1967.11.13☞〈昨日より読んでいる〉1968.3.2日記
〈「育児の百科」ができましたので一部お目にかけます〉1967.11.17消印
〈「育児の百科」きのう岩波で署名しましたのでまもなく届くと存じます〉1967.11.18消印 - 〈医者をやめたということを今日ほど感じたことはありません〉1967.11.22消印
- 『私の読んだ本』にみる“わたしの戦後”岩波新書1971.5.20
「8敗戦のあと」「9戦後十年たって」「10それからあと」⇒〈松田にデンワ。岩波新書ほめて〉1971.5.25日記 - 「医者であること」『生きること・死ぬこと』筑摩書房1980.5.20
- 『社会主義リアリズム』三一書房1958.3.25☞〈大変オモシロイ〉1958.4.6,8日記
⇒富士正晴書評 読売新聞1958.4.19(『書中の天地』白川書院所収1976.5.30刊) - 『日本知識人の思想』筑摩叢書1965.7.25☞〈ヨミカエシテ、実ニ感心シテシマッタ〉1965.11.11日記
〈およみいただけて光栄…戦前のことはつらくもあったが、自慢したいようなところもあり〉1965.11.12消印 - 『ロシアの革命』河出書房新社1970.2.15☞〈はなはだいいとデンワ。松田ごきげん〉1970.2.26日記
〈ロシアマルクス主義とは何かに対する私の答えです〉1970.2.17受取☞富士正晴書評『展望』5月号1970
(上記『書中の天地』所収)☞〈行き届いた批評で有難かったとデンワあり〉1970.4.13日記 - 『近代日本思想集I』(編集・解説)筑摩書房1974.10.20
- 『在野の思想家たち』岩波書店1977.5.20
- 「深夜電話」『若き人々へ』筑摩書房1980.9.20初出「文芸」1971.1
〈松田よりデンワ。「文芸」にわたしをモデルに「深夜電話」を書いた由〉1970.12.5日記 - 「ハーフ・タイム」毎日新聞コラム1972.1-83.9
・「反ベストセラー」『ハーフ・タイム下』筑摩書房1980.1.20所収 初出1977.3.2」
(富士正晴著『竹内勝太郎の形成』未来社1977.1.25にふれ)
〈「ザメンホフ」と合わせ「ハーフ・タイム」に御登場をねがいました。題して「反ベストセラー」〉1977.2.19消印
・「出馬要請」(同上) 初出1977.6.1
⇒富士〈「ハーフタイム」に小生の喋りが出て来てびっくりした〉1977.6.1日記
・「十二年」『本の虫‐ハーフ・タイム』筑摩書房1983.6.20所収 初出1978.10.25
⇒富士〈「十二年」という松田の文章大へん面白かった。古稀翁になる寸前の居直りみたい〉1978.10.25日記
・「ふたりの詩人の本」(同上) 初出1980.9.3(富士正晴著『馱馬横光号』書評)
〈「駄馬横光号」ありがとうございました…感心したところをかいたつもりです〉1980.8.22消印
・「ソクラテス」(同上) 初出1983.6.8(富士切抜き)
⇒富士〈ソクラテスにひっかけてもうハーフタイムをかくことは自分は不適当(貧乏でもない)ということも書いている…書くことがなくなったような気分はよく判る〉1983.6.8日記
- 論評『桂春団治』毎日新聞1968.10.31(富士正晴著『桂春団治』毎日出版文化賞受賞にあたり)
〈松田道雄よりデンワ。新聞に載せる文章読んで聞かせてくれた。少しよっぱらっている〉1968.10.20日記 - 「私の教育論」筑摩書房1977.4.25
- 『女と自由と愛』岩波新書1979.2.20 関連記事「早く結婚しなさい」1979.3.29サンケイ新聞
⇒富士〈横田美知にデンワして「クロワサン」の松田攻撃のところ複写たのむ〉1979.5.24日記 - 「いまの読書」『私の読書法』筑摩書房1980.3.20
- 『帝国軍隊に於ける学習・序』未来社1964.9.10 〈人間とは何かをはっきりおかきになり〉1964.9.26消印
- 『贋・海賊の歌』未来社1967.12.10 「小信」(詩) 初出「響」No.7 1965.4
〈「贋・海賊の歌」ありがとう存じます。「小信」をよんだら胸がいたくなりました〉1967.12.23消印 - 『贋・久坂葉子伝 小ヴィヨン』冬樹社1969.11☞〈「小ヴィヨン」をはなはだ完成してるといった〉1970.1.6日記
〈どうしてか これは拝読しておりませんので ありがたく思っております〉1969.12.18消印 - 『八方やぶれ』朝日新聞社1969.12.15☞松田〈「八方やぶれ」の礼。妙な感じ〉1969.12.12日記
〈電鈴けたたまし たちまち聞く大隠銘酊の声…八方破れとは八方開きたるなり〉1970.3.17消印
〈富士さんの八方破れは八方開運やといいたい。第一運文運、第二運酒運…第八運、死運〉1970.4.28消印 - 「男色大鑑」河出書房新社『井原西鶴』所収1971.10〈可哀そうな話…反訳の文体はいいそうだ〉1971.3.9日記
- 「往生記」(『新日本文学』9月号1971)〈松田道雄より大キゲンの深夜デンワ。大々的に絶賛〉1971.9.4日記
- 『酒の詩集』光文社1973.2.28〈松田よりデンワ。「酒の詩集」のこと。気分少しましになる〉1973.2.25日記
※「良書すいせんのことば」(松田道雄『私の読書法』筑摩書房1980.3.20所収 初出1973.4) - 『中国の隠者』岩波新書1973.10.20☞松田〈早速拝読。孔子駅から陶淵明駅までの列車談〉1973.10.29受取
- 『富士正晴詩集』五月書房1975.5.5☞〈うちのよめはんは おそれおおい本やというてます〉1975.5.26消印
- 『奥の細道』学習研究社1979.9.4〈バショウ±の俗なところよくおかきになりました〉1979.9.22消印
- 『乱世人間案内』影書房1984.6〈富士さんと似たようなところに私もいるという親しい感じ〉1984.6.29消印
- 『榊原紫峰』京都新聞連載1984.3.12-9.28→朝日新聞社刊1985.9.20
〈連載お仕上げの由…安楽は老後にありとはうそで、死後にしかありません〉1984.8.26消印
【富士正晴エッセイ】(松田道雄関係)
- 「退屈通信」『紙魚の退屈』人文書院刊1972.5.30 初出「日本小説を読む会会報」1968.12
- 「ひとをほめて世をそしる」『紙魚の退屈』(同上) 初出 読売新聞1970.8.30
- 「酒(二)」『狸ばやし』編集工房ノア刊1984.4.27 初出「図書」1981.1
【諸事交信】
◇『桂春団治』によせて
- 松田道雄がウイスキーとカセット〔春団治テープ〕持って来る。大変気持のいい来客であった(1969.10.24日記)
- 春団治のテープ聞く。(松田道雄の持ってきてくれたもの)。黒田弥栄子、松田道雄にデンワ(1970.1.31日記)
◇高橋和巳、三島由紀夫、小田実について
- 桑原武夫ニデンワ、松田、小田ニカンシンシテイルコトヲ話スト、桑原賛成シタ。(1965.11.30日記)
- 三島の自殺について「朝日ジャーナル」のなだいなだの書いていること読めという。(1970.12.21日記)
- 高橋和巳肝臓ガン、すでに転移もあり、死は必定。(松田)しきりと可哀そうがる。三島の死も高橋の死も似たかよったかで、虚栄、虚勢もあり、秀才のマジメクササもあり、まあ哀れであろう(1971.2.16日記)
◇酔っぱらって交信
- 酔っぱらって半分ぐらいしか記憶にない手紙をおもしろかったといっていただいてやれやれ(1970.5.7消印)
- 酔っぱらってケナシていた大島渚の「儀式」ほめている(朝日夕刊で)のはどういうことか(1971.7.23日記)
- 「まだ起きとるんやぞ」と大いばりデンワ。大分よっぱらってこれから眠るとこらしかった(1972.10.21日記)
◇毎日出版文化賞選考委員会
- 来年から出版文化賞の委員になるようわたしを推薦したという。こいつは厄介である(1975.9.30日記)
- 毎日出版文化賞の委員むりやりにたのまれる。松田のねがいなり。ことわりくたびれて諾す(1976.5.31日記)
- 帰りの車に松田道雄と、学芸部の中村竜平同車し、うちに一寸あがってしゃべって帰って行った。茶も出さず、茶入れに行って席を外すのはもったいないと松田がいったので(1978.10.4日記)
◇朝日賞について
- 松田道雄すいせん理由…年上の医者連にもエイキョウ与えている(1976.11.17日記)
- 松田の朝日賞はダメだった由。…松田もらってもよろこびもせんやろうからどうでもいいわ(1976.12.7日記)
◇健康についての交信
- 酒のんで一日中よく判らず。松田道雄の腹は痛むので、もう酒ものめぬ由。困惑する(1973.3.13日記)
- あちこちデンワ。松田道雄はまあ元気になっていた。一時は心臓発作と思った由。(1982.11.17日記)
- 「いまのままでは富士さん死なはる」 死ぬことも生です 生のえらび方は本人にある(1985.5.6消印)
- 江戸の空気にややおなれになったご様子、だが総じてしんどいことは同じでしょう(1987.1.14消印)
※富士が生前に受け取った松田道雄書簡の最後のもの
◇その他いろいろ
- デンワで松田道雄に司馬を紹介し、司馬にデンワで質問させた。司馬、松田の学識に今更のことながらも一度感心したらしい。松田は司馬のこと一を聞いて十を知るような人やなといった(1971.4.29日記)
- 岡林信康をきくため、めずらしく宵っぱりしました…岡林はよかったです。深夜ハガキごめん(1971.8.24消印)
- 〔大阪芸術賞〕受賞御見舞をしようと電話をかけましたが茨木回線は交通渋滞でかかりません(1971.10.30受取)
- 〔記者〕文化勲章、民間がやることにすれば誰にやるといってくる。桑原と松田をあげておく(1972.10.13日記)
- 松田が遊びの上手な人は若い頃から裕福に育った人で、貧乏だったら遊ぶことを知らぬことが多いといったのが面白かった。(1974.5.11日記)
