事例詳細

調査・質問内容

茨木市で受入していた疎開について知りたい

図書館からの回答

回答日 2024/12/10

『茨木市史』(茨木市史編さん委員会/編 茨木市役所 1969)
疎開学童の受入れの項に、疎開児童の生活状況が述べられている。
「第102表 茨木地区学童疎開受入れ状況(昭和19年~20年)」では、現在の茨木市北部地域で受入した地区、宿泊所在地、国民学校名が記されている。
「第103表 大阪市東淀川区大隅国民学校学童疎開」では、大隅国民学校児童が地区や宿泊先を分散して疎開していた状況がわかる。

『茨木市教育百年史』(茨木市教育委員会/編 茨木市教育委員会 1972)
疎開学童の受入れの項に、疎開児童の生活状況が述べられている。
「第50表 茨木地区学童疎開受け入れ状況(昭和19年~20年)」では、現在の茨木市北部地域で受入した地区、宿泊所在地、国民学校名が記されている。(未詳のデータの記載あり)
「第51表 大阪市東淀川区大隅国民学校学童疎開」では、大隅国民学校児童が地区や宿泊先を分散して疎開していた状況がわかる。

『新修茨木市史 第3巻 通史 3』(茨木市史編さん委員会/編 茨木市 2016)
疎開生徒・学童の受け入れの項に、疎開児童の受入れ地区、生活状況が述べられている。
「表157 大阪市東淀川区大隅国民学校学童疎開」では、大隅国民学校児童が地区や宿泊先を分散して疎開していた状況がわかる。

『見山の歴史』(谷川 孫次/著 探究社 1996)
5空襲と疎開の項で、見山・清渓・佐保の各村々での疎開児童の生活の様子が説明されている。

『大阪の学童疎開』(赤塚 康雄/編著 クリエイティブ21 1996)
茨木市域で疎開を実施した「啓発国民学校」「菅原国民学校」「大隅国民学校」「城北国民学校」の疎開した児童の学年、男女別人数、受入施設名、同行した職員などがわかる。

参考文献

タイトル 注記
茨木市史 P539-540
茨木市教育百年史 P120-122
新修茨木市史 第3巻 通史 3 P817-818
見山の歴史 P116-119
大阪の学童疎開 P296 301 307 311

参考URL

タイトル 注記
国立国会デジタルコレクション(図書館送信資料)『大阪日産自動車三十年史』 P19~22の「本社被爆、そして終戦」の項に、軍及び大阪府の命によって、本社ならびに工場を大阪府三島郡見山村に疎開することとなったとの記述がある。見山村忍頂寺にある小学校の運動場と校舎を借受、工場開設の準備をおえたところで終戦を迎えたいきさつが説明されている。

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