【正晴とチャンバラ・時代劇】(富士正晴日記 拡大コピー)
◇正晴が観たチャンバラ・時代劇一覧表(日記記載分38作品)
◇チャンバラ五大スター:大河内傳次郎,阪東妻三郎,片岡千恵蔵,市川右太衛門,嵐寛寿郎
☆「チャンバラ五大スター名セリフ集」(『週刊サンケイ臨時増刊―チャンバラ映画特集』付録ソノシート)
☆「チャンバラ五大スター」カット写真多数(阪妻作品の一部を除き後掲雑誌より)
◇阪東妻三郎(チャンバラ二大スター) *田村三兄弟(高廣・正和・亮)の父
☆「阪妻 あのフンドシを見せる立ち回りがええんや」(『週刊読売―チャンバラ映画』1975.7.12日号)
※耳より情報:チャンバラ映画史上最高傑作の誉れ高い『雄呂血』(1925作品)が4Kデジタル修復(2023)
◇大河内傳次郎(チャンバラ二大スター)
☆「大河内の鼠小僧次郎吉を見て」1934.1.26,1934.11.8日記
☆富士正晴「大河内傳次郎を書いて」(玄海出版「50冊の本」1978.2月号)
☆「インタビュー・ガイド 富士正晴著『大河内傳次郎』」(推進者106号1979.3)
☆大邊豊「父大河内を語る」(『畫譜 大河内傳次郎』 御園京平編著 活動資料研究会1976.9.1)
◇チャンバラ映画評
☆「チエゾウの『堀田隼人』見た」1933.11.16日記
☆「猛爆・誤爆座談会―作品スターベスト10」(前掲『週刊読売』) *正晴は記事中同意できる箇所にチェックマーク
【大河内傳次郎作品の内容】 ※写真:前掲『畫譜 大河内傳次郎』,後掲『あゝ活動大写真』より)
☆「盤嶽の一生」:阿地川盤嶽=大河内
常に真実を追い求めては裏切られる侍・阿地川盤嶽。滑稽なほど真面目で直情的、世間の規範から微妙にズレている盤嶽は、至るところで様々な人間喜劇・悲劇の担い手となる。(参考:Wikipedia,「MARC」データベースより)。
☆「御誂治郎吉格子」:治郎吉(次郎吉)=大河内
大阪に逃亡した義賊鼠小僧治郎吉は、女郎お仙と同棲。お仙とは京から大阪に下る三十石舟で知り合った。彼女は強欲で十手持ちになる欲望治郎吉を抱く床屋の兄・仁吉のために身を持ち崩していたが、凶状持ちの治郎吉に激しい恋慕を抱く。そんなお仙の積極性を治郎吉は疎ましく想うようになる(参考:Wikipedia)。
☆「興亡新撰組」:近藤勇=大河内
※フィルム散逸のためストーリー不明。
☆「明治元年」:綱代木兵衛=大河内
戊辰戦争を描く伊藤大輔の幻の映画(オリジナル散逸、壮絶なクライマックス残存)。宇奈月城主綱代親子は、勤皇と佐幕に分かれ、骨肉の争いを繰り広げる。落城し、燃え盛る炎の中を敵として再会する(京都国際映画祭HP)。
☆「鼠小僧次郎吉」:鼠小僧次郎吉・長沢屋勘右衛門・大阪屋仁吉(三役)=大河内
木具職人の家へ奉公に上がった後、鳶人足となったが、不行跡のため父親から25歳の時に勘当される。その後は賭博で身を持ち崩し、その資金稼ぎのために盗人稼業に手を染めるようになったと伝わる(参考:Wikipedia)。
☆「薩摩飛脚」:神谷金三郎=大河内
幕末期、謀反の疑いのある薩摩藩に潜入した幕府隠密「薩摩飛脚」・神谷金三郎を主人公とした物語(Wikipedia)。
☆「忠次旅日記」:国定忠次(忠治)=大河内
颯爽とした忠次像を廃し、子分に裏切られて破滅していく人間くさい忠次像を映画化。大掛かりな移動撮影、暗闇に浮かぶ御用提灯といった表現主義的な技法、大河内傳次郎ら役者陣の演技、激しい立ち回り、瑞々しいリリシズム、字幕の巧妙な使用などが、従来の時代劇にはない魅力として当時の映画批評で指摘されている(Wikipedia)。
☆「大菩薩峠」:机竜之助=大河内
幕末を舞台に、虚無にとりつかれた剣士机竜之助を主人公とし、甲州大菩薩峠に始まる彼の旅の遍歴と周囲の人々の様々な生き様を描く(Wikipedia)。
☆「丹下左膳」:丹下左膳=大河内
『新版大岡政談』の登場人物であった、隻眼隻手のニヒルな造型の左膳が人気となり、各社映画化。日活作品は、裏切られたと知った左膳が主君の行列に斬り込み、「おめでたいぞよ丹下左膳」という台詞とともに自刃するという結末。大河内のグロテスクとも言える憤怒の形相で、競作の中では最も人気を得た(Wikipedia)。
☆「関の弥太ッペ」:関の弥太郎=大河内
関本の弥太郎こと「関の弥太っぺ」は、生き別れた妹を探す旅で少女「お小夜」と出会う。小夜の父「和吉」は盗賊で、金を盗まれた「箱田の森介」の手で斬られる。父の死を知らない娘に妹の面影を見て心を動かす(Wikipedia)。
【富士正晴が観た邦画】(日記記載分より抽出)
☆正晴が観た邦画一覧表(チャンバラ・時代劇を除く66作品)
☆「只野凡児 人生勉強」1934.1.29日記(原作漫画表紙カット:日本の古本屋 徳尾書店HPより)
<作品紹介>朝日新聞連載された麻生豊の漫画の映画化(P.C.L.の第一回実写化作品)。只野凡児は大学卒業後、苦労の末、ようやく玩具メーカーの社員となる。就職難の不景気な時代を懸命に生きていく姿をコミカルに描いた作品。「就職運動の巻」「家庭教師の巻」「社員入門の巻」などのエピソードで構成。(参考:note佐藤利明)
☆「乙女心三姉妹」1935.4.23日記
<作品紹介>浅草の三姉妹、おれん・お染・千栄子の生き方を当時の浅草の風俗をたっぷり取り入れながら描写。三女千栄子はレビューガールとなり、ステージで踊るのが「浅草ブルース」。ややもっさりとしたレビューガールたちのダンスに、原作者川端康成が愛した浅草レビューを体感することができる。(参考:note佐藤利明)
☆「放浪記」1935.5.12日記
<作品紹介>第一次世界大戦後の暗い東京で、飢えと絶望に苦しみながらもしたたかに生き抜く「私」が主人公。カフエの女給など、多くの職に就いて微々たる給金を得ながら最底辺の暮らしを生きる。1日休めば、宿と食事にも事欠くその日暮らし。ひどい貧乏にもめげず、あっけらかんとした姿が多くの共感を呼んだ。(参考:Wikipedia)
☆「拾った貞操」1936.6.3日記
<作品紹介>海岸埠頭のクレーンの機関夫・文太郎とカフェ女給時子の恋物語。二人の間に赤ん坊が生まれたが、時子はある夜帰らず魂の抜けたような取り乱した姿で朝方帰ってきた。生活のために女衒相川の魔手にかかって遠く北国に売られてゆく時子。果たして文太郎と時子は再び巡り合えるのだろうか…。(参考:日活データベース)
☆「綴方教室」1938.8.24日記
<作品紹介>豊田正子の作文集を映画化。東京下町のバラック街で、両親や兄弟と共に慎ましい生活を送る小学6年生の正子は、作文が得意でいつも先生からほめられていた。そんなある日、正子の作文が雑誌「赤い鳥」に掲載される。大喜びの正子だったが、この作文の内容が原因で、正子の父は職を失いかけてしまう。(映画.com)
☆「子供の四季」1939.1.31日記
<作品紹介>善太・三平兄弟とその家族の一年を描いている。善太と三平の父親が病気になり、経営する牧場も経営難に陥ってしまう。二人の祖父は、自分に逆ら って婚した娘のことを快く思っていなかったが、祖母に説得され娘夫婦を許すようになった。しかし父親の容態が急変し…。(allcinema)
☆「沙羅乙女」1939.3.6日記
<作品紹介>原作獅子文六。夢を追いかけるだけの父と夜学に通う弟を養うため、煙草屋の雇われ店主として生計を立てる娘・遠山町子。ふたりの若者が町子に求婚する。ひとりはエリート銀行マン、もう一方は故郷を離れ、菓子職人として独立することを夢見ている。人間関係の狭間で揺れ動く町子の健気さがいい。(yoshixブログ)
☆「土」1939.5.2日記
<作品紹介>明治時代。父親の卯平が作った多額の借金のため、勘次は娘のおつぎと息子の与吉とともに貧しい生活を送っていた。おつぎは亡くなった母親の代わりに農作業を手伝い、勘次にも卯平にも優しく接していた。ところがある日、卯平と与吉が囲炉裏に火をつけようとして、家が炎に包まれてしまう。(参考:allcinema)
☆「白蘭の歌」1939.12.12日記
<作品紹介>松村康吉は実家の借金を返済するため満鉄を退社し、弟徳雄とその婚約者京子とともに満洲の開拓村に移り住む。満洲の富豪の娘李雪香は恋人康吉から手紙が来ないのを訝しみ、開拓村を訪れるが、京子を康吉の妻と誤解して去る。日本人に騙されたと思った雪香は従兄資文の勧めで抗日軍に入る。(参考:Wikipedia)
【富士正晴映画評】(邦画編 新聞紙面掲載分)
☆「危険な関係」を見て 1957年3月1日 新関西
☆「禁男の砂」の楽しさ 1957年6月19日 新関西
☆「殺したのは誰だ」を見て 1957年7月5日 デイリースポーツ
☆「淑女夜河を渡る」 1957年8月8日 新関西
☆「真空地帯」を見て 1952年12月13日 関西大学新報
☆「鷲と鷹」を見た後で 1957年10月3日 スポーツニッポン
☆「地上」 1957年11月16日 読売(夕刊)
☆「侍ニッポン」思いつくまま 1957年11月18日 新関西
☆後口のよい物語「七人の女掏摸」 1958年1月12日 新関西
☆「巨人と玩具*」に思うこと 1958年6月20日 新関西 *ポスターあり
☆「一粒の麦」をみて 1958年9月16日 読売(夕刊)
☆「みみずく説法*」のおもしろさ 1958年9月27日 新関西 *チラシあり
☆「赤い陣羽織」 1958年9月28日 国際
【富士正晴と歌唱・レビュー】(富士正晴日記 拡大コピー)
☆「シヤリアピンをきゝに行く」(シヤリアピンとサカロフの印象比較)1936.2.12日記
☆「花月で斐亀子楽劇団*を見る」1935.6.11日記
*朝鮮の伝統的民謡に踊りをつけるなど、斐亀子が西洋舞踊を取り入れて組織した舞踊団。レビュー中心。
☆「瀬川信子*はしっかりした体をもってゐる。…気が向きさへすれば信子という短編が書けるかもしれない。」
1935.5.13日記 *レビュー女剣戟一座座長、後年〈関西随一!群を抜く男装の麗剣士!〉と称せられた。正晴作「信子」「信子の争奪」にレビューガール信子として登場する。漫才コンビ「唄子・啓助」は同座出身。
☆小説『信子』 富士正晴作(『三人』12号 1936.5.23)→校正(時期不明)『信子爭ダツ』と改題(拡大コピー)
☆「野間(宏)来る。(小説)『信子』をいゝといふ。」1935.12.31日記
☆「サルトルの『嘔吐』をよみかけた。阿呆らしい 昭和十一年に『信子』で僕がやってゐた仕事と同質」1948.1.1日記
☆「ファンレター こんな美人とは 京唄子*」読売新聞1971.9.4 *瀬川信子一座元座員