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展示

企画展
戦後80年
~富士正晴と戦争Ⅱ~



会期  令和7年9月30日(火曜日)から令和8年3月24日(日曜日)まで

 

ごあいさつ

本日は富士正晴記念館展示会にご来場頂きましてまことにありがとうございます。
     戦後80年、昭和元(1926)年から数えて100年を本年迎えるにあたり、このたび令和7(2025)年度の展示テーマを「戦争」と致しました。
     1944(昭和19)年2月、31歳の富士正晴のもとに臨時召集礼状が届きます。同年5月に大陸の戦地に赴き、46年5月に帰還します。この間、中国戦線において一兵卒として戦争を体験。この体験は、戦後の富士正晴の文学的出発に大きな影響を与え、これまでの詩の世界とは全く異なった文学的モチーフを展開することになります。反戦でも厭戦でもない富士正晴の戦争文学の展開。中国の民衆(とりわけ行軍中苦難をともにした「苦力(クーリー)」たち)の心底に潜むニヒリズム(虚無主義)を通して、戦争という非日常的事態を徹底した日常レベルで捉えようとする。その手法によって、富士正晴は戦争の不条理とそれに耐える人間のしたたかさを浮き彫りにします。戦後も遠征した中国への関心はやまず、数多くのエッセイを書き、中国文化大革命に関する新聞切抜を熱心に続けました。
     本年度の1年を通した展示は、前期と後期の2期に分けた企画になっています。後期は戦争体験に基づく小説・エッセイ、さらに復員間もない頃の詩や版画などを取り上げ、富士正晴が辿り着いた戦後の文学・芸術活動に迫ります。また、戦前の『三人』同人による詩集『山繭』や『三人』を原点とする同人雑誌『VIKING』の創刊、戦時中にやり残した「丘の上の対話」「黒豹」「宗教論」(師・竹内勝太郎の作品)の刊行など、復員後の富士正晴にとって本来の自分を取り戻す“再生”ともいうべき取り組みに刮目します。
     富士正晴の戦争小説は1950年の『一齣(ひとこま)』に始まり、80年書き下ろしの「馱馬横光号」まで20点にも及びます。その間に発表した『童貞』『一夜の宿』『帝国軍隊における学習・序』(直木賞候補)『徴用老人列伝』(芥川賞候補)などは非常に評価の高いものです。これらの作品は共通して虚飾・虚構を極力排除した記録者としての眼で貫かれています。その眼には戦後社会の繁栄が見せかけのものと映ったようです。
     富士正晴の日記・作品(原稿や版木を含む)、書簡(野間宏宛他)などの見逃せない貴重な資料を取り上げ、富士正晴の戦争と戦後社会を見る目や価値観、そして芸術観に触れて頂くとともに時代の空気を感じ取って頂ければと思います。
     富士正晴の「戦後の補修」の歩みをどうぞごゆっくりご鑑賞・ご堪能下さい。

富士正晴記念館
令和7年(2025年)9月


 

展示目録

【正晴の生還を喜ぶ】正晴からの復員報告への返書

◇野間宏<ほんとうに 喜び、お祝ひします…最近、兄を求める心、切でした>正晴宛手紙1946.5.26

◇高村光太郎<無事御帰りのハガキによろこびました>正晴宛葉書1946.6.29受取

◇桑原武夫(1946.5.29付)他多数(展示割愛)

【復員直後の苦悩】(194647年)

☆文芸仲間であった水芦光子に苦悩を吐露する手紙を書くが、<このてがみは出せない>と投函を思いとどまる。

<お祝ひに上がらなくてはと思ひ乍らのびのびになってゐて 大へん気になって>水芦光子宛手紙1946.8.6

☆記憶を呼び覚ますこと、戦争小説の題材となるキーワード(増原伍長、崔長英など)、『三人』再刊への思いを綴る。

<乾燥した眼と焦立たしいほど退屈な魂とをもって戦ひにゆき、同じものをもって帰つて>1946.10.30日記

☆就職口を探すも高桐書院での編輯者の仕事を自分から謝絶。版木・表札・碁盤などにせっせと版画を彫る。

<生活設計は皆外れた…版画と原稿かきとで生きてゆくやう努力するより仕方がない>1946.11.28日記

☆個展のため京都大阪を行ったり来たりで結局就職できなかった。版画を彫り、棟方志功論を書く。

<十一月は十二日迄個展…結局は就職は出来ず…十一月にした仕事は大毎のカツト、井上靖の蔵書印位…洋間に火を入れたので少し仕事した。版画小さいの三、四点。『棟方志功』リアルにのせるもの>1946.12.1日記

☆新年元旦にあたり復員前後の自身の様子を綴る。版画制作と個展のこと、絶望感と意欲は表裏一体と記す

<昨年の元旦は多分采石鎮から南京への移動のはじまり…内地へ帰つたのが五月の下旬。八月下旬までは何もしなかった。十月三十日より二週間個展。結局就職もせず年が暮れた…年末体重十四貫>1947年元旦日記

☆復員後2度の個展は大した収入にもならず、就職も出来ず、詩も版画もやる気にならず、砂漠のような気分

<いやになつて了ふ…やる気にならない。やりたくても、何かおつくうで手がつかない>1947.7.11日記

【復員後の版画制作】(194647年 ※7ヶ月間30点程

復員後、戦地で罹患したマラリアによる体調不良に加え、戦争体験による虚無感や喪失感といった精神面から富士はものを書くという意欲が沸いてこず、体を使って打ち込む(彫る)ことの出来る木版画制作に傾注し、個展を2回開きます。作風は棟方志功と似通ったところがあり(棟方作品と間違われたりもする)、また、「棟方志功」論(『リアル』1947.3)が棟方本人からも好評であったことから、棟方から富山の自宅に遊びにお出でと誘われたりします。

◇富士正晴戦後日記(版画・絵画関係)

◇棟方志功との交流

☆富士への棟方からの返信葉書 年不明7.4消印 *1946もしくは47

<元気にまみれての壮んなお便り…その節にお会いできればと、仄願。ヨイハングワホツテヰマスネ、バンザイ>

☆富士正晴「棟方志功」(『リアル』掲載)への棟方からの礼状1947.3.2受取カ

<リアル紙上での御論 読みました。ありがたくありました。…この内におでかけください。雪の春キレイデスヨ>

☆<棟方に逢ふ、わたしの版画を不思議な版画と言ひ居つた…版画を二、三枚やった>1947.4.29日記

◇第1回富士正晴版画展1946.10.3011.8(のち12迄)於:秋田屋編輯室画廊 パンフレット1946.10.30

◇第2回富士正晴版画展」1947.4.1828於:京都進々堂

◇富士正晴手摺り版画11点

◇富士正晴版木20枚 ※版木不足のため1枚の版木に数点の作品を彫ることもありました

◇井上靖評<才質と美に対する姿勢は注目>『井上靖全集第二十四巻』新潮社所収初出毎日新聞1946.11.9

◇版画展の成功を祝い、正晴の文学的飛躍を願う野間宏

<版画展、大成功、喜びます。…君の前途は、大きくひらけるでせう>正晴宛野間封書1946.11.15

◇木版画を贈られた高村光太郎の正晴宛礼状1947.4.24消印<否應なしに観るものを捉へる>と高く評価

<小生の版画をほめて来た。十日位わたしの版画を室にかけて眺めていたようだ>1947.4.29日記

【復員後の創作詩】(194647年)

<一九四六年五月末のころわたしはシナから復員した。何もすまいとふてくされながら。しかし、わたしは詩を書き、版画を作り…その詩は私自身にとってメモぐらいに役立ちそうだが、さて、ひとには迷惑かも知れぬ>

☆「一九四六年の詩」VIKING26号1951.5.1発表

☆「身投げ」」VIKING1号1947.10.1発表

☆「みんなが おれの歌に笑ふ、おれは みんなの歌を悲しむ…」SCAPIN(すかぱん)の詩より1947.2.2

☆「くらい日本 雪でも 晴でも 風はさゝやく いやだ いやだと…」同上1947.2.15

☆「ひねくれかへつて いまは はや ミステフイカッシヨンより趣味がない」同上1947.2.19

【野間宏からの叱咤激励】(194750年)

野間は良い小説を書くこと、井上靖への訪問を何度も促す。また、『暗い絵』の上梓を正晴に伝え、装幀を依頼する。復員後、版画に没頭はできても小説には気が行かない正晴にとって野間の“好意”は一種のプレッシャーとなった。

☆<僕の小説集を、真善美社で出してくれることになり、題名は『暗い絵』、…装幀の点で、重厚なものがほしい思つています。心当たりがあれば知らせて下さい>正晴宛野間葉書1947.3.13付①

☆<僕は、五、六月頃から印刷にかかつてほしいと考へてゐます…小説できれば、送つて下さい。井上さんの小説も  待つてゐます>正晴宛野間葉書1947.3.13付②

☆<『暗い絵』上梓のこと大変愉しく…小説はわたしは未だ一向手はつけていません。井上氏の方は近いうちに逢っ て話すことにします…月内に第二回個展の用意は終る予定。彫るのは終った。摺りも大方終ったので、あとはこまごました仕事ばかり>野間宛正晴葉書1947.3.21≪神奈川近代文学館蔵の複製≫

☆<先日 お願ひしておいた『暗い絵』の装幀を、至急やつて頂きたいのです…緑白黒はうつくしいのではありませんか。表紙の紙質は後便にて送ります>正晴宛野間葉書1947.4.0

☆<装幀、拝受しました。一点、非常に、いいと思ひました…ほんとうに有難う>正晴宛野間封書1947.5.13

☆<御便り、小説、有難う。いそがしく、返事がおくれてすみません…小説くりかへし読みました。しかし、この小説は、このまま、発表することはできないのではないかと思ひます>正晴宛野間封書1947.9.6

☆<野間にとまる。野間、早くもわたしが滞京しに来たのかとあはてる。いい小説を三つかいてから出てこねばだめだといふ。わたし、むつとしてもう書いたよといふ。のま、むつとする>1950.3.3日記

☆<失業状態 一向変化せず…小説 一向に自分の気に入るものが出来ぬ>野間宛正晴手紙1950.6.2付未投函

【富士正晴の“再生”】(1947~)

戦時中にやり残した師・竹内勝太郎作品の刊行、戦前の『三人』同人による詩集『山繭』の刊行、『三人』を原点とする同人雑誌『VIKING』の創刊、生涯の伴侶となる女性との再婚など、本来の自分を取り戻す再生の道程を辿る。

◇竹内勝太郎作品の刊行

『丘の上の対話』京都圭文社1947.8編集「あとがき」 ※初版の劣化ひどく、翌1948.8の重版を展示

  *この8月頃、編集者として圭文社に入り、「三島由紀夫短篇集」を企画するが、1949年圭文社倒産により挫折

<きれいな書物となつた事、お骨折りに>出版の労への謝辞:正晴宛高村光太郎葉書1947.8.12受取

『定本 明日』明窗出版刊1948.1編集「あとがき」 ※1931アトリエ社刊『明日』に満足できず再版

『宗教論』東京福村書店刊1948.12

<竹内さんの本二冊出る由でよろこびました>正晴宛高村光太郎葉書1948.10.22

<続々出版される機運になった…貴下の今日までの努力を回顧>正晴宛高村光太郎葉書1948.11.4

◇伊東静雄『反響』創元社刊1947 <伊東静雄と『反響』の割付け終了>1947.6.18日記

◇詩集『山繭』(野間宏・富士正晴・井口浩)明窗出版刊1948.4装幀:庫田叕

<たいへん美しい詩集をいただきました。竹内さんもどんなにか…>正晴宛高村光太郎葉書1948.5.23

◇『VIKING』創刊(『三人』同人・維持会員6名と伊東静雄紹介の島尾敏雄ら3名の計9名)

『VIKING』創刊号(現物)1947.10

VIKING例会写真 10号例会1949.9.25 12号例会1949.12.4 17号例会1950.4.30

「同人雑誌四十年」(『富士正晴作品集一』所収 岩波書店刊1988.7 初出 読売新聞連載1977.78

廣重總「『VIKING』を拠点として富士正晴の戦後の補修-」『さまざまな戦後』日本経済新聞社刊1995.6

◇清水静榮との結婚 *正晴が戦前に勤めていた京都弘文堂事務員で13歳年下、戦後に知り合う。

My Silvia(原稿105枚):静榮は正晴日記に「S」のイニシャル名で登場、Sをモデル想起させる小説(未発表)

SSilviaトヨビ名ヲツケタワケガ判ツタ ソレハD.GarnettLady into Foxカラキテヰルラシイ、テブリックノオ人ノ好サハ私ノモノラシイ。>1948.10.27日記 *英人作家David Garnett「狐になった奥様」

<私ノ不安ハ 独身デアルトイフトコロニアル…Sガソレヲ救フダラウ>1949.2.18日記

Sは私と暮らしたらどんな不幸も不幸と思わぬ、後悔せぬといった>1949.2.20日記

<スマートマデ歩キ、Marriage菓子トコーヒー。コレガ俺タチノ結婚式>1949.3.12日記

<結婚写真トラウカ トイフト 静榮ハ不要ダトイフ。ソレヨリ 金婚式ニトレバヨイトイフ。>1949.3.13日記

富士正晴と静榮の新婚生活(於:高槻市馬町) 写真撮影:島尾敏雄1949.6写真4葉

【戦争小説】(195080年)

作品は共通して虚飾・虚構を極力排除した記録者の眼で貫かれている。戦場における性暴力の問題について緊張感をもって取り上げる一方、苦力(クーリー)や馬(荷馬)との触れ合いを微笑ましく時にユーモラスに描いている。

◇富士正晴戦後日記(戦争小説を中心に)

◇富士正晴戦争小説一覧表(計20点)

『一齣(ひとこま)』(原稿124枚)初出VIKING19号1950.7

『敗走』(原稿139枚)初出『群像』6月号1951.6

『童貞』(原稿130枚)初出VIKING371952.1

『一夜の宿』(原稿127枚)初出VIKING421952.7

『崔長英』(原稿108枚)初出VIKING901958.1

『帝国軍隊に於ける学習・序』(原稿95枚)初出『新日本文学』NO162 1961.1

『徴用老人列伝』(『富士正晴作品集一』所収 岩波書店刊1988.7)初出『文學界』第19巻第2号1965.2

馬横光号』(書き下ろし)六興出版刊1980.7

【従軍体験に基づくエッセイ】(196674年)

富士正晴は“雑談屋”と称されるほど戦後多くのエッセイを手掛ける。世相・風俗物に見られるシニカルで軽妙洒脱ともいえる言い回しや独特の切り口に不思議な魅力を感じる人も多いが、ここでは戦争小説や軍隊生活と遠征先の中国での思い出に関するものを主に取り上げる。

「戦争小説―私の場合」富士正晴『八方やぶれ』所収朝日新聞社刊 1969.12.15 初出 朝日新聞1966.8.10

「わたしの戦後」『富士正晴作品集一』所収岩波書店刊1988.7 初出「展望」1967.8

「私の中国」富士正晴『思想・地理・人理』所収 1973.4.10 PHP研究所刊 初出読売新聞1972.8.16

「思い出したこと」講談社文芸文庫編『現代の文学―月報集』所収2016.5.10初出同「月報381974.11

【その他】

☆富士正晴が軍隊から持ち帰った水筒・飯盒…戦場からの生還の証